数年前に書いて、封じていた文章。
ところどころ草稿。
言葉の選びに迷って封じていたが、載せよう。
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そうか。
フィジカル強者を嬲りたいんだ。フィジカル弱者のルサンチマンを、体育会系強者にぶつけて逆襲したいのか。
ならば、そう描けばいいのに
貧困者に憑依せずに。
【自分は経済的強者である。
そして、
貧困者を思うと後ろめたい。】
【自分はフィジカル弱者である。
そして、
体育会系強者が憎い。妬ましい。】
「貧しい人の味方」を名乗り、自分が経済的強者である後ろめたさを誤魔化したい。
貧困者に憑依して、体育会系強者を虐める行為を、同情をよぶ社会的妥当性のあるものとして、正当化したい。
後ろめたさと、ルサンチマンを、同時に償却しようとした結果がこれか。
「弱者」の威を借る狐だ。映画「二ノ国」に疑問を持った人は、映画妖怪ウォッチ「空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!」を観ると、問題の所在が分かりやすくなると思います。
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心に大きな穴が開いたようで、なにも考えられない。気が抜けたように病室の外をぼんやり見つめる日々のなか——
「時間が戻ってほしい⋯⋯」
もう戻らないと分かっていながら、そんな奇跡が起きることを願わずにはいられなかった。
そんな時、病室の窓からクジラの看板が見えた。
「もしあのクジラが空を飛んだら。そんな馬鹿げたことが起こる世界なら⋯⋯、私の足だって、きっと前みたいに⋯⋯」いつの間にか、そんなことばかり考えるようになっていた⋯⋯。
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新倉なつき著[製作総指揮・原案:日野晃博]『映画妖怪ウォッチ 空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!』小学館(2017年1月)p.110
「自分もフィジカル強者に、体育会系勝者に生まれられたら、どんなによかったか。」という羨望を、
『空想の世界で実現するしかないじゃん。』と
この世では実現しようがないじゃん。という絶望とともに償却しようとしている。
障害者の絶望、不能感と、一般に「非障害者として扱われる人びと」の不能感を、重ね合わせてイマジネーションすることは、むしろ「脱差別的」であるだろう。
その人たちの生活の機微をていねいに観察し、描写に落とし込めていれば。世間で語られている現状肯定的な美談に対して、
「でも、実際はそうはなってないじゃん。」と、シニカルにツッコミを入れる氏の感性は、率直に好きだ。
「リアリティラインを揃える」という発想が、根本的に欠けている。致命的に
日野晃博氏は、「リアリティライン」の概念を、メタ的にちゃんと理解して操作できるようになれば、化けると思う。
ほかにも問題はあるが。
一にも二にも、まずリアリティラインだよ。
しゃちょう!「リアリティライン」について、身近なアニメ製作者に質問してみたり、論考を片っぱしから読んでみたり、ネットでググって「こういう使われ方をするのかー」と確認するのも良いと思う。
リアリティラインがガタガタでも不思議に魅力的な作品もあるし、
ギャグの時はリアリティレベルをぶっ壊して、
シリアスな場面ではリアリティレベルを引き上げる。とか、
あえてリアリティレベルをぐらぐらブレさせて、「不気味さ」を演出するような技法もあるけど、
日野晃博がまず始めるべきは、「リアリティライン」の概念について、とことん勉強することではないか?「恵まれている」ことは、加害ではないよ。
恵まれとは、偶然だ。恵まれを
否認するところに、暴力が生じる。
他者との『相対的な』恵まれを否認することは、
恵まれなかった人びとの、「自分は恵まれなかった!」という叫びを封殺する。
「否認」が暴力を生じる。「恵まれる」ことは、加害ではない。
格差が存在する事実を、虚心に認める。
それだけでいい。
「貧しい者達を救うために、体育会系強者をボコす必要がある!
これは自分・経済的強者による、貧者救済である!!!」
『自分に劣等感を負わせた体育会系強者をボコりてえ!!!』
『金持ちに生まれた(なった)からって、貧しい人をコケにしたいわけじゃないんだよー!!
罪悪感に責められて、苦しいよ⋯!』
本当に言いたいことと、実際に言い、表現していることの間にズレがあるから、作品にチグハグが生じるんだ。
ひとを妬み、憎むことは、悪ではない。
全ての人びとに。
他者と自分の置かれた境遇を比較し、「不公平だ!」と叫ぶ権利がある。比較によって差異を認知することは、人間の根本的な世界把握の基盤だ。
妬むことは、知のはじまりだ。妬むことは、悪ではない。
妬み、憎んで。妬んだ結果。
どう行動するかじゃないか?しゃちょう。
「女児向け作品」をつくってはどうだろう?
真剣に言っている。
〈男性性〉を描こうとしてもどん詰まって硬直して母性のディストピアでどこにもいけない
女性性に徹底して内在する。
クィアな女性性に。
ここのところのL5作品で、いちばんワクワクしたのって 女性キャラなんだ。
いまのL5作品が〈男性性〉に内在してもくそみたいなパターナリズムの
押し付け管理主義視野狭窄エリーティズムにしか行き着かないようなので
それは女性万歳という事ではなく、
〈女性性〉の対立、複数であるということ。
女と女の戦い。
睨み合い。
わたしたちは個であること
女や男である前に、じぶんであること。
いまのL5作品に必要なのは、dis-abilityの哲学だ。
近代スポーツの五体満足主義、優生思想からの脱却。
生まれもった身体『のみ』で戦わなければ祝福を与えない。
「正しい身体」を持たない障害者・弱者は、
「正しい身体」を持った強者を凌駕してはならない。
テクノロジーの力で、薬理の力で弱者が強者を打ち負かしてはならない。
「正しい身体」の絶対的価値が、暴落してしまう。
「正しくない身体」を劣位に置き、一握りの「正しい」強者だけが祝福される格差社会を全力で固守せよ。
L5作品は、明らかに近代スポーツの五体満足主義・優生思想を、憎悪している。
そして、憎悪しながら
認められたくてたまらない。羨望しながら、「認められたい」と渇望しながら。
絶望し、憎悪している。
周縁に追いやられた、「正しくない身体」の持ち主は、排除されるがために。
テクノフォビア
『かつて旧人類の男どもは、愚劣で粗暴な〈絶対悪の父〉として社会を支配していた。
だが俺は違う。
上級男性たる今の俺ならば、〈絶対善の父〉になれる!』ギャグだろ。
どうみても同じ轍を踏んでるだろう!
『〈上級男性〉に到達したこの俺こそが、新しい時代を牽引する先導者だ!』
男性達を優/劣二つの”race”に分断して、自らは〈絶対善の父〉である。として治者を標榜する。
かつての円堂教世界と、同じ事やってるじゃないか!!!
今のL5作品は、
かつて自分がいたところのものを。
いうなれば
『過去の己を、全否定して踏みつけにすればもっと正しくなれる!』そう言っているように見えるんだよ。
それは、人生版【進歩史観】じゃないか?
それこそ、かつて戦後民主主義的「左翼小児病」と批判されたところの、
善悪二分法史観じゃないか。
「9条平和主義」的戦後民主主義を批判し、『それではいけない。
過去の歩みを抹消するのではなく、歴史と接続し、過去から学ぶことで自主防衛の力を取り戻そう!』と呼びかけていたのがイナズマ無印ゲーム1・2・オーガじゃないか!
ブラック企業的自己責任論、
「根性万能論」的シバキズムを
ちょっと付言すると、ゲーム1の時点では、そこまで「行き過ぎ」てはいなかったのよね。
◯尾刈斗中のゴーストロックで金縛りに遭い、為す術もない雷門イレブン。
円「ううーっ わかんねえ!とにかくコンジョーでとっぱするしかねえ⋯かな?」
栗「そっ そんな~!ああっ もう後半がはじまるでやんすよ!」
◯「コンジョー」を振りかざすも、はなはだ頼りない様子の守。それに対し豪炎寺は。
豪「ヤツらのあの動き⋯おそらく⋯。(中略)今だ!みんな目を閉じろ!あいつらの動きを見るんじゃねえ!」
豪「思ったとおりだ⋯。ゴーストロックってのはサイミン術だったんだよ。あいつらの見かけと技をくりだすキミョウな動きにすっかりだまされてたってワケさ。」
染「さ サイミン術だと?⋯おまえ それをたしかめるためにずっとヤツらの動きを見ていたのか⋯?」
豪「⋯。」
染「くっ⋯。やっぱり さすがだぜ豪炎寺⋯!試合中にそこまで考えていたなんて⋯。それにくらべてこのオレは⋯!」
根性万能主義ではなく。
「
冷静な観察」と、そこから得た気づきによる「発想の転換」、
「工夫」によって状況を打開しようという姿勢が見られた。
『根性だけじゃダメだよな。
状況を正確に把握して、有効な手立てを選ばないと!』という、垂直方向の努力だけでなく、水平方向のマインドシフトを大切にする姿勢があった。
それが無印2になると、困難な状況下で仲間達がなにを言っても、何が起きても
漠然とした努力!のスローガンで
守くんが「やればできる!やればできる!信じていれば勝てない相手は無い!」と叫んで、
「うん、そうだよね⋯!」と周りの皆が「感動」して、
挙国一致で賛同するというあり方一徹になった
家父長制パターナリズム、再来。
それを支えているのは、
〈母性のディストピア〉だ。
スナックワールドのチャップも、
「お婆ちゃんとの紐帯」が強調されるごとに、
何をやってもシバかれずに許される、
特権的に一人だけ英雄扱いしてもらえる謎存在になっていったんだよな。
お婆ちゃんを隠れ蓑にさえすれば、どんな畜生行為をやってもガンガン英雄扱いしてもらえる。
お婆ちゃんの威を借る狐に堕した。
こういう「名誉女性」的似非リベラル男性が、強者の身振りで周縁化された男性をボコ殴りにする。
【出木杉君の皮を被ったジャイアン】。という恐ろしい虐め主体が誕生している。
レイトンの話って、【それは被害妄想だったんだよ!】オチが多いな。
不思議な町、悪魔の箱、魔神の笛、奇跡の仮面と、新旧三部作の最終作以外すべて、
「怪奇で残酷に見えた現実は『まやかし』で、その背後に、実はこんな『いい話』があったんだよ!」オチを有している。
『奇跡の仮面』はランドが使用人ヘンリーを「犬」扱いしているところもふくめて、屈折した主従の愛憎模様が凄く良い。えげつない
『魔神の笛』のユラが置かれていた状況なんかは、さすがに「被害妄想」じゃすまないと思うんだが。ユラ達きょうだいが屋敷に孤立して住んでいたのに、町の人も気に掛けず、行政もろくに支援をしないまま
町長のクラーク氏さあ。過酷な状況を、
「被害者の意識改革」で解決しようとする、物語の志向。
【被害者が寛大に赦してあげれば、加害者も浄化されるよ!】的教訓垂範物語が先鋭化したレイトンMJへの道程には、
【
現実は過酷過ぎるから、ポジティブな洗脳で切り抜けよう(、そうするしかない)!】的、円堂教的対処法が尾を引いているようにみえる。
ガンダムage最終話フリットの、逆発狂も。
サーハイマンが味わった地獄も、ブロネフによる凶行も、
似たような流れで「浄化」されるのだろうか。
そして、カトリーの涙も。
https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar1669970------------------
>日本の漫画・アニメカルチャーは、
ある種の多国籍な世界を描く、特異な変化を遂げたジャンルになっていったという歴史的な背景があり、それは海外の移民たちのアイデンティティ不安とも共鳴しうるものとなっている。(中略)今、世界中で大きな議論になっているテーマに移民問題があるが、
移民や自分はマイノリティだと認識している人たちのアイデンティティを支えるものとして、日本のサブカルチャーが機能し、いわゆる「ライナスの毛布」として受け入れられていることは、もう少し知られてもいいのではないだろうか。
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イナズマって、視覚的に多国籍ですよね。
肌の色の濃淡、だけでなく青肌土肌、獣人、宇宙人。
では、
L5作品には、「多様性」があるのか?
YesでありNoだと思う。
視覚的な、「キャラデザイン」の域での多様性は、有る。素敵だ。
ロリショタジジババ満ち満ちたフェティッシュ世界、素晴らしいと思う。
しかし、L5ゲームないしアニメが総体として「多様性」がビビッドかというと、疑わしい。
根本的に、イナズマ世界は、「単一民族」だと思う。
イナズマに限らず、L5作品全体が、単一民族にみえる。
世界戦を描いても、個々の民族性やナショナリティは、ステレオタイプの塊として描かれる。
日野晃博という作家は、エスニシティや、ナショナリティの多様性というものに、根本的に関心がない。(と断言してしまうが)
世界を描いてるフリをしても、もう隠す気ねえだろってぐらい、諸民族・諸国家の個別性に「興味ありまっせ〜ん」
存在するのは、「エディプスとしてのアメリカ」と、「日本」だけだ。
(エディプスというと難しげだけど、ここではざっくり「ファザコン対象」でOKです)
そのアメリカにしても、「エディプスとして」以外の国家性は、他の国と全く同じようにステレオタイプ化されています。
いっぽう、
セクシュアリティにおいては、冒険心と、遊びごころに満ちている。みんな、スナックワールド観ようぜ!
アダルトビデオまんまなシーンとかあるぞ!
ビビって思わず周囲をキョロキョロしてしまったw背後注意的な意味で
>大人になりたくない(異性に一方的に好かれる状況を維持したいがために、好意に応えずに責任も取ろうとしないズルさ)という「本音」として高橋留美子の漫画はあり、大人になるしかない(結果がはっきりと出る試合や恋愛に挑み、その現実を受け入れる)という「建前」を目指す姿として、あだち充の漫画があると考えることができるだろう。
なるほど。
性的なものと世界の関わり方。
『母性のディストピア』でもあったけど、この年代の漫画をもっと読んでみたくなるな。
「誕生日」を画定すると、生々しくなるんだよな。
サザエさん時空が不能になるというか
虚構時空だからこそ実現し得る「
豊かな無時間性」が、画定した数字によって喪われてしまう
何度も何度も「誕生日」を迎えてるキャラクターは、今頃◯◯歳なのか?という、
「なまなましさ」が生じてしまう。
それは死の欲動も衰えさせる。
「架空年代記」っぽくなってしまう
「サザエさん時空」にも、不気味な欺瞞性はあり
流転しながらも再帰して取り戻されるような誰にも奪えないものが、あってほしいんだ
それは決して不可能ではないと思う。
うまれたこと自体がどうでもよくなるような狂おしい破壊が、イナズマの魅力だ
公式でなにか誕生日のようなものを設定するなら
「春ごろ」とか「9月」とか、そのくらいに「あいまい」にしてほしい。
画定した数値が前面化すると、とたんに「大きな物語」、
記述された歴史の時間軸に囚われてしまう。
時間は、個々人のいきる密なる広がりの中ではなく 外の枠組みに
「支配された時間」の内側に、拘留される。
生を重ねながらも「外の時間」には記述されない。させない。
というのは大事だと思うんだよな
エルドラドに生老病死を監視された守くんは、知らず生の時間を「歴史」の権力に握られてしまっているように見える
円堂守くんという存在そのものが
イナズマ世界において、「媒体」としてあるのだろうか
追記:
たとえば
古代人の少年の【誕生日】がお出しされたら
「それを観察・記録した人物は誰ですか」
記録可能だったとして
「それを現代の太陽暦で記述設定することに意味が有るのですか
(あるとすれば)それはいかなるものですか」となって
「時間の記述・計数」に関わる権力の問題が内部化しちゃうのよな。
「現在」、土日を「休日にしましょう」という規範が世界広範に敷かれているのも
(ざっくり)近代西欧中心主義社会の「覇権」に支えられて
ユダヤ教を源とする「キリスト教の安息日」が指定されているわけで
「時間」を記述することって、当たり前のようでいて
なにげに 生臭い権力の問題と密に関わってくる。
もちろん現代日本をモデルとする平凡な子供達のプロフィールにほんなごちゃごちゃしたこと、【よくね?】とも一方では思う。
遥か未来では 太陽暦自体が「何らかの理由で」廃止されて
【新たな年時計数法が、ときの権力者によって制定されていた⋯】
みたいな世界観の根本をハッキングするようなSFチックな介入も、
予め設定された年時・生年月日が先に用意されてるとアレ?ってなっちゃうとか
クロノストーンみたいなダイナミックな時空の交わりが関わってくる、ガンガンSF色を取り込むGO時空的世界観とは不調和かな という要素もあって いろいろ思ったのじゃ。
またSF抜きにしても
産まれてすぐコインロッカーに詰められて数日経って救出された子供とか、ぶっ飛んでるけど狼に育てられた(!)子供とか、
虚実入り混じり特殊な出生歴を持った人の、誕生日「らしきもの」を公式に設定する意味 とか、やっかいなことを考えてしまう。
歴史的に 「
誕生日を設定する権力」を持った者は誰か。
医者だ。
歴史的に 「
命日を認定する権力」を持った者は誰か。
「医療」だ。サブカルチャー、というかキャラクターコンテンツに制定される「誕生日」的なものは、
どの子にも必ず「主人公」の日が与えられる。という意味で凄く有意義なものだと思う。
ただ、
その子たちと結びつけられる、紐付けられる「固有の日」というものが
「生まれた日」だけというのは一律過ぎる感じがして、ちょっと
芸がほしいな。【その子がはじめて親に「死ね。」と言ったday】とか
【そのひとがはじめて犯行に手を染めたday】とかを祝うイベントがあって
照れ臭そうに頭を掻いてケーキを持っている人のキラキラしたすがたが描かれたら面白い。
武将なら【はじめて敵の首級を持ち帰ったday!】とか、そのキャラによって。
その子がいちばん嬉しかった、
誇らしいと心から感じた日が記念日化されたら面白いな。
その中に「誕生日」があってもいい。